西浦賀の国登録有形文化財 穴澤家住宅座敷蔵
横須賀市西浦賀の西叶神社に隣接する「穴澤家住宅座敷蔵」は、令和6年12月3日に国登録有形文化財に登録されました。
江戸期の浦賀の町は、干鰯問屋や廻船問屋が集積しており、また江戸湾出入りの船改めを行う船番所や浦賀奉行所が配され、湊町として大変賑わっていました。19世紀になると江戸湾口周辺に異国船が姿を見せるようになり、国防の必要性に迫られた幕府は、会津藩などを浦賀湾周辺に配備しました。穴澤家は会津藩上級武士の家柄であり、穴澤一族も浦賀に隣接する鴨居に来ていたようです。穴澤一族の由来は古く、清和源氏の平賀氏が祖先で戦国大名葦名氏、蒲生氏郷、保科正之に仕え桧原村に帰住していました。穴澤善右衛門という勇者が磐梯山に棲みついた怪猫を伝家の宝刀貞宗で退治し、猫魔岳と呼ばれるようになったという伝説が残っています。この宝刀は猫切丸の異名で呼ばれ、現在も浦賀の穴澤家で大切に保管されています。
浦賀穴澤家の初代穴澤興十郎は浦賀湾警備の会津藩が引き上げた後の生まれであり、異国船警備とは関係ないようです。明治4年頃西浦賀の現在地にきて、米、味噌、醤油などを扱う廻船問屋を成功させ、財を成しました。明治20年には浦賀町戸長に就任し、県会議員や郡会議員を歴任し、大正元年に亡くなりました。大正5年、2代目穴澤興十郎が、現在の「穴澤家住宅座敷蔵」を上棟させました。この頃の穴澤家敷地は、浦賀湾岸壁までを含む大きな屋敷で、その様子は、明治期に発行された「日本博覧図」に描かれています。第1次世界大戦の頃で、造船業が好景気で、浦賀船渠㈱の株主でもあった穴澤家も恩恵を受けたようです。しかし大戦後の混乱と関東大震災の被害をうけ、多くの財産を失いました。当該座敷蔵は、穴澤家の住宅として昭和期に買い戻され現在に至ります。
当該建物は、桁行4.5間梁間3間の2階建てで、梁間1.5間の蔵前が付いています。構造は木骨石造で、外壁は房州石の切石積みです。小屋組みは和小屋、9寸の太鼓梁二重梁で重層な構成です。屋根は桟瓦の土葺で、大型の影盛漆喰が設けられています。1階は、床板張天井梁現しで、現在は厨房兼食堂ですが、建設当初は倉庫蔵として利用されていました。入り口には大型切石の引戸が残されています。2階は畳敷竿縁天井の2室の座敷で、当初の状態が残されています。その内部造作は、床框の鉄刀木(タガヤサン)・床柱の 黒檀(コクタン)・床天井はスギ板幅3尺の一枚物・押入框のケヤキの他、非常に良質で繊細な木目のスギ赤身の柾目木が化粧柱・敷居・鴨居・長押・天井板・竿縁等造作及び建具の框に 使われていて、それらを加工する木工技術も秀逸です。選び抜かれた良質な材料を優れた職人が存分に腕を振るった様子が伺える見事な建築です。
浦賀は、現存する蔵建築も少なくないですが、そのほとんどは倉庫蔵であり、座敷蔵は希少なものです。また、江戸期から湊町として栄えた浦賀の町の歴史を語る語り部としても貴重な文化財です。現所有者の穴澤夫妻のご意向により、国登録有形文化財となりました、現在は住宅として利用されているので、内部の一般公開はされていませんが、将来は、地域の役に立つような利用形態をお考えのようです。(都市史学担当:亀井)

穴澤家住宅座敷蔵 正面より 左奥が西叶神社

穴澤家住宅座敷蔵 2階 掛け軸や刀剣などの調度品も貴重な文化財(松平容保の書等)
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