学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」

 近年、「新型コロナウィルス」の流行によって、世界的大流行(パンデミック)が引き起こされました。今回は、こうした現在の出来事と関連して、江戸時代の日本が経験した伝染病「コレラ」の大流行をめぐる歴史について紹介したいと思います。

 「コレラ」とは、コレラ菌の感染により発症する伝染病で、突然の腹痛と嘔吐、そして激しい下痢の症状を引き起こします。

 日本においては、江戸時代に三度のコレラの流行がありました。いずれも流行時期や死者数には諸説ありますが、まず日本最初の大流行となったのは、文政5年(1822)8月から10月下旬にかけてといわれています。主に西日本、とりわけ大坂で大きな被害を出しました。二度目の流行は、安政5年(1858)夏頃のことで、長崎で流行が始まり、7月には江戸でも感染者が出ました。死者は江戸だけで、3~4万人といわれています。コレラ流行下の江戸の様子を記した『安政箇労痢流行記概略』(1858年9月刊)によれば、火葬場(「荼毘所」・「焼場」)からあぶれた棺桶が数限りなく積み上げられて「臭気」が充満し、道には火葬場へ向かう棺桶で行列を成していたそうです。こうした病死者のうちには、『山海見立相撲 相模浦賀』を描いた歌川広重(1797-1858)や書家の市河米庵(1779-1858)が含まれるなど、当時の著名人が多数亡くなりました。そして、三度目の流行は、文久2年(1862)夏頃で、そこに麻疹(はしか)の流行も加わり、江戸だけで実に23万人以上(7万人とも)の人々が亡くなったとする説もあります。

 では、現在の横須賀市域において「コレラ」は流行したのでしょうか。手がかりとして、大田和村(現横須賀市大田和)の百姓(浅葉)仁三郎の記した日記(横須賀史学研究会編『浜浅葉日記(三)』(横須賀市立図書館))から、安政・文久期の「コレラ」流行に関する記事を紹介します。まず安政5年(1858)8月には、村内で「しめ(縄)」を引く準備をしたり、念仏講をひらくことで疫病除けをしています。しかし、仁三郎の身辺にそれほど逼迫した様子は感じられません。ところが、それから四年後の文久2年(1862)7月から8月の記事には、浦賀・大津・長坂・松輪・金田などの近隣村々で「ころり」が流行し、複数の死者が出ているとの伝聞が記されるなど、不安な日々を過ごしていたようです。そうしたところ、ついに仁三郎の身辺にも病魔が忍び寄ります。8月13日には、妻の実家である三ヶ浦(現葉山町)の知人でしょうか、七左衛門(「麻疹之後大病之よし」)、おたせが病死しました。そして翌14日には、七左衛門の妻・おくに、高次郎なる人物も相次いで病死。さらに八日後の8月22日には三ヶ浦の義兄がコレラ(「ころ病」)で病死しています。こうした事態に仁三郎は、「流行のころり、おそろしき事ニ候」(8月14日条)と記しています。仁三郎の日記だけでは、三浦半島全体の被害状況や伝染病の大流行が地域社会に与えた具体的な変化を把握することはできません。しかしながら、文久期におけるコレラ(および麻疹)の流行が三浦半島にも悲惨な被害を与えていたことがうかがえます。

 なお、文久期(1861-1863)といえば、坂下門外の変・皇女和宮の降嫁・将軍徳川家茂の上洛・生麦事件とその賠償をめぐるイギリスとの戦争危機(薩摩藩では薩英戦争)など、攘夷(外国人の排斥思想)をめぐる事件が頻発した時期でもありました。洋学者である福沢諭吉(1835-1901)は「(※攘夷論者を恐れて)およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間というものは、夜分外出したことがない。」(福沢諭吉『新訂福翁自伝』)と回顧しています。こうした世相ですから、「米艦ミシシッピー号が中国から日本にコレラ病を持ち込んだ」と、伝染病の流行は日本を外国に「開放」したせいだと外国人を敵視する人々もいました(ポンペ『日本滞在見聞記』)。歴史的にみても、伝染病流行後の社会においては排他的な傾向が強くなるのかもしれません。(文献史学担当:藤井)

安政5年(1858)、江戸におけるコレラ流行の様子
(「荼毘室混雑の図」(『安政箇労痢流行記概略』(国立公文書館所蔵))

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