学芸員自然と歴史のたより「黒船と電信機が予見した未来」

 1853年(嘉永6年)ペリー提督が浦賀沖に現れ、新時代の幕開けとなったことは、皆さんご承知でしょう。蒸気船が実用化され、世界中を走り抜ける時代がやって来たのです。ちなみに、黒船と呼ばれたのは、船体が黒いからです。当時日本でも知られていた防腐剤である石炭のタールを船体に塗布したので、黒いのです。

 グローバルな目で蒸気船の価値をいえば、前世紀以来の産業革命の象徴です。この能力を使えば、北アメリカのカリフォルニアから18日程度で日本に到達できますよと、アメリカ大統領はペリーに託した手紙に書いていました。
 同じことを開国してから、日本へ派遣されたアメリカの総領事タウンゼント・ハリスは、最初に幕府の老中堀田正睦と会見した席でもう一度いっています。1857年(安政4年10月26日)、ハリスは日米が国際貿易を開始する意義を説明しました。
 (1)この50年来、西洋世界は大きく変化しました。その原動力となったのは、蒸気船と電信機の発明です、というのです。
 (2)これらの発明により、世界を結ぶ距離が時間的に短くなり、交易が盛んになったために、今、西洋各国は豊かになっています、と説明したのです。もちろん、日本がアメリカをはじめ各国と通商関係を結ぶことを勧めたのです。
 ハリスは、近い将来、江戸とワシントンの間が、海底ケーブルで結ばれれば、ほんの一時間ほどで応答可能になりますよ、とも解説しました。

 実際に、1830年代には、既に大西洋を越えてヨーロッパとアメリカ間でケーブル敷設が試みられていましたし、1865年には上海まで到達し、遣欧使節団も恩恵にあずかりました。1867・68年(慶応3・4年)には、幕府も江戸・横浜間に電信機でつなぐことを考えましたが、明治維新で挫折。
 1871年(明治4年)には、上海と長崎間に海底ケーブルが敷設され、ついに日本はグローバルな通信網に加わったのです。現代では無線通信ですが、社会に持つ意味は150年前と同一です。

 開国や国際貿易が、何を自分たちにもたらしたか!それを教えてくれる素材が多数あるのが、横須賀という街です。今は、携帯電話の開発拠点ですよ。(文献史学担当 安池)

 

 

ペリー来航時の黒船「ポーハタン号」(リトグラフ)

 

ポーハタン号の断面図(※木造船体にドラム缶ほどのシリンダーを装備)

 

江戸幕府へ献上した電信機の実験風景(絵巻物)

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