市立横須賀病院医師 林信雄博士(1897-1964)の紹介【学芸員自然と歴史のたより】

2025.01.31

 昨年、当館では市立横須賀病院の医師であった林信雄医学博士(1897-1964)[以下、林博士]に関する貴重な史料の寄贈を受けました。そこで本号では、横須賀市の医師であり、古参の横須賀市民でもあった林博士について紹介します。

 

林信雄博士(1897-1964)[個人所蔵・提供]

 

 林博士は、現在では当たり前に行われている内臓器官(胃・腸・肺・心臓など)のレントゲン診断という領域を新たに切り開き、日本医学史上に偉大な功績を残した医師です。林博士は、明治30年(1897)4月8日、山形県鶴岡町新士町(現・山形県鶴岡市)に旧庄内藩士の子として生まれ、山形県立庄内中学校(現・山形県立致道館高等学校)を経て、千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業しました。そして、昭和8年(1933)から昭和38年(1963)に至る約30年間を市立横須賀病院で勤務し、同病院のレントゲン科医長や長井分院長、野比臨海療養所長などを歴任しました。

 しかし、長年にわたる放射線医学の研究によって身体を放射線に侵され、その障害の影響を受けることとなります。市立横須賀病院在職中には、放射線障害により両手の親指(拇指)を除く四本の指、さらには左腕を切断しています。それにも関わらず、林博士は「それは予期されぬことではなかったが、自分のガムシャラの不注意の結果だから、自慢にはならない」と他人事のように言い、この横須賀の地で研究と診療に従事し続けました。

 なお、林博士が勤務した市立横須賀病院は、現在の横須賀市文化会館がある場所に所在していた横須賀市立の病院です。大正13年(1924)の開院当初は、関東大震災直後のバラック建ての極めて粗末な病舎でしたが、昭和6年(1931)にはモダン建築による新たな病院が竣工しました。そして、昭和37年(1962)には小児科、内科、外科、産婦人科、耳鼻科、眼科、放射線科などの診療科目を備えた病院に発展していましたが、同年3月17日午後10時10分頃、病院内からの出火により全焼してしまいました。

 

市立横須賀病院(昭和29年(1954)頃撮影)[横須賀市立中央図書館郷土資料室所蔵]

 

 林博士が着任した当時、放射線医学の権威は全国的にみても稀な存在であり、三浦半島一円の医師たちが競ってその指導を求めたといいます。一方の林博士も自ら遠方にまで足を運んで、レントゲン医学の普及に努めました。

 さらに、林博士の活躍は医学分野に止まりません。横須賀市身体障害者後援会や肢体不自由児父母の会の活動を主導するなど社会福祉の分野にも積極的に携わっていました。横須賀市身体障害者後援会とは、林博士の主唱によって昭和29年(1954)に発足した会であり、昭和33年(1958)には肢体不自由児父母の会の結成にも携わりました。そのほか、昭和36年(1961)には全国肢体不自由児父母の会評議員、昭和38年(1963)には神奈川県肢体不自由児父母の会連合会常任幹事を務めるなど社会福祉の発展に貢献しました。また、林博士はスポーツ愛好家であり、特に幼少期から野球を好んでいました。千葉修学時代には選手としてマウンドに立っていたといいます。市立横須賀病院に赴任してからも、野球に対する情熱は消えることなく、終戦直後の昭和21年(1946)には横須賀市野球協会を創立して、自らも会長や顧問となり終生活動に関わり続けました。野球以外にも横須賀市ハンドボール協会会長、横須賀卓球協会顧問を務めるなど横須賀市のスポーツ振興に寄与しています。

 

昭和34年(1959)5月29日付、神奈川県知事からの表彰状[当館所蔵]

 

 昭和38年(1963)に市立横須賀病院の一切の職を退いた林博士は、翌39年(1964)12月12日に胃癌のため67歳で死去しました。なお、林博士の遺体は、その遺言に従って放射線障害研究のための献体となり、千葉大学病院において解剖が行われました。

 林博士の死から3日後の昭和39年(1964)12月15日には、米ヶ浜通りの横須賀市医師会館で告別式が挙行されました。この告別式には、横須賀市長らの弔辞とともに、2000名を超えるとも思われる参列者が林博士の死を悼みました。

 以上、紙幅の許す限り林博士の事績について紹介をしました。林博士の人となりについては「物質にも地位にも、また名声にも全く無欲の人」、「求める人ではなくて与える人」と評され、生前においてすでに「医聖」や「聖人」とも称されていました。しかし、自らの業績や行いを誇示することを潔しとしない林博士の性質もあり、現在ではその名前や事績を知る横須賀市民は少ないと思います。本号が林博士の事績とその遺志を現在に伝えるきっかけとなれば幸いです。(文献史学担当:藤井)

 

【参考文献】

○佐久間佑生編『林医博を表彰する』(株式会社羽陽社、1965年)

○「横須賀市医師会報」№28(横須賀市医師会、1965年)

○瀬木嘉一「故林信雄博士の放射線障害歴-千葉大学内科レントゲン創始当時のこと-」(『臨床放射線』第11巻第3号別冊、1966年)

○竹内勝・木村英夫「慢性レントゲン皮膚炎の剖検例(畏友林信雄博士を想う)」(『皮膚科の臨床』第9巻第10号、1967年)

○佐藤保太郎監修・佐久間佑生編『医聖・林信雄伝』(株式会社羽陽社、1970年) 

○横須賀市体育協会編『横須賀市体育協会史』(横須賀市体育協会、1985年)

 

 

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