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研究報告(自然)71号、(人文)68号を掲載しました >

横須賀市博物館研究報告(自然科学)71号 横須賀市博物館研究報告(人文科学)68号

横須賀製鉄所副首長ティボディエの家② 特徴的な屋根の構造―フレンチトラス【学芸員自然と歴史のたより】 >

 今回も前回に引き続き、横須賀製鉄所副首長ティボディエの家についてご紹介します。  前回の記事では、ティボディエの家の発見経緯や歴史的価値が高く評価された様子などをご紹介しました。今回は、学術調査の中で見えてきた建築としての特徴について、一部、ご紹介してみたいと思います。  まず、ティボディエの家の発見につながった平成13(2001)年の調査では、目視可能な箇所について、全体的な観察が行われました。壁の表面や間仕切壁、屋根の仕上げ材などに、広範囲に改装の痕跡が認められたものの、建物を支える主要な柱などの骨組みは、旧態を保持していたものと推定されました。  2001年の調査で、最も保存状態が良いと判断されたのが、屋根を支える骨組でした。これを建築用語で小屋組と言います。小屋組の基本的構造については、旧来の日本の技術によるものでは無く、西洋式のトラス構造である事がわかりました。しかも、その断面形状は、横浜開港資料館に寄託されている「堤真和家文書」の中に含まれるティボディエの家の設計図の断面図と概ね合致することが判明しました(図1)。  屋根の材料については、解体調査時に、細かい材料も含めて建設当初の部材の残存率を調べる詳細調査が実施されました(参考文献2)。その結果、屋根に材料については、多くの党所在が確認されたもののその多くは、基本構造を支える小屋組の部材とこれに付随する細かい部材でなどで、屋根材やその下地の材料の多くは新建材に置き換えられていることが判明しています。  屋根材は、建物の外観イメージにも大きく影響するので、当初材が少なかったのは残念ですが、屋根を支える骨組みでは、ほぼ全ての当初材が現存していることが確認されており、屋根の荷重を支える技術とその力学的考え方がそのまま受け継がれていた点は大いに価値があると考えられます。そして、その力学的考え方は、旧来から日本に伝わるものでなく、西洋の考え方に基づく、トラス構造と呼ばれるものであることも明らかとなりました。  ティボディエの家の屋根の技術については、更なる特徴があります。それは、どのようなものなのでしょうか。ティボディエの家の屋根のトラス構造が、特殊な形式であるところです。一般的なトラス構造とは、屋根材の下部を支える斜材を支える部材の入れ方が異なるのです。図1をご覧いただくと、屋根の真ん中の頂点から真下に向かう束という部材以外にも真ん中から手前側で2本の鉛直方向の部材が確認できます。いずれも後世に補強されたものです。この2本の補強材の内、内側のものは一般的なトラス構造の形式で、外側の補強材はあまり一般的ではなく、この補強材に連なる斜めの部材は、更に、あまり見かけない手法です。しかも、この斜めの材は、建設当初からの部材で、横浜開港資料館に寄託されている「堤真和家文書」の断面図にもしっかりと描かれています。従って、この屋根の端の方の斜め材は、計画的に設置されていたものであろうと考えられます。この特殊な形式のトラス構造は、フレンチトラスト呼ばれます。  現在のところ(今後、新発見があるかも知れませんのであくまで現時点で)、このフレンチトラスを用いた建築は、日本で3つ確認されています。  一つ目は、旧横須賀製鉄所副首長ティボディエ官舎(明治3年ごろ)。  二つ目は、新潟県新発田市にある陸上自衛隊白壁兵舎広報史料館(明治7年、旧陸軍東京鎮台歩兵第8番大隊分屯営兵舎)。  三つ目は、群馬県の富岡製糸場の繰糸場(明治5年、国宝・世界遺産)です。  この3つの共通点は、明治初期に建設されていること、そしてもう一つはフランスの建築技術が導入されている点です。他にも共通点があるかも知れませんし、フレンチトラスの他の現存遺構も発見されるかも知れません。フレンチトラスについては、ティボディエの家の学術調査を支援していた横須賀の文化遺産を考える会でも調査を進め、古いフランスの辞書にティボディエの家と同じ形式のトラス構造が掲載されているのを発見して、教えてくださったこともありました。このような地道な調査の積み重ねが現代日本の建築技術の源流解明の力になって行きます。(近代建築史担当 菊地) 図1.緊急調査時の小屋組み(2001年7月12日撮影) <参考文献および関連資料> 1) 在日米海軍横須賀基地B‐53建物調査団(団長:初田亨)『在日米海軍横須賀基地B‐53建物調査報告書』横須賀市教育委員会, 2001年9月 2)『ティボディエ邸調査報告書』横須賀市教育委員会, 2011年2月 3)菊地勝広・安池尋幸・初田亨・福島保・前田忠史「旧横須賀製鉄所・造船所副首長ティボディエの官舎建築について」『日本建築学会大会学術講演梗概集 F‐2分冊』日本建築学会, 2002年8月 4)安池尋幸「横須賀製鉄所副首長ティボディエの官舎建築資料について」『横須賀市物館研究報告(人文科学)45号』横須賀市自然・人文博物館, 2003年3月 「学芸員自然と歴史のたより」はメールマガジンでも配信しています。

アホでもヘボでもありません!【学芸員自然と歴史のたより】 >

 アーボヘーボをご存じですか?漢字では粟穂稗穂と書きます。「あわほひえほ」がなまって、アーボヘーボになったんですね。どんなものなのかということで、写真をご覧ください。 アーボヘーボ(横須賀市衣笠)  不思議な形をしていますが、これは粟や稗が実っている様子を表しています。それではなぜこんなことをするのでしょうか?それはアーボヘーボを行う時期に関係します。 アーボヘーボは、1月14日・15日の小正月(こしょうがつ)に見られる行事で、予祝儀礼(よしゅくぎれい)とも呼ばれます。先ほど粟や稗が実っている様子といいましたが、それを予め表現してお祝いし、現実になることを願ったのです。畑に飾ったアーボヘーボは、「17日の風に当てるな」とされ、16日のうちに片づけてしまったようです。  アーボヘーボの材料には、ヌルデやニワトコの木を使いました。ヌルデはカツノキとも呼ばれ、正月にヌルデで作った箸をカツバシといい、雑煮を食べるときに使ったり、神棚に備えたりしました。なぜ、アーボヘーボやカツバシなど正月に作るものにヌルデやニワトコを使うのかは諸説あります。ヌルデもニワトコも成長が早いので、その生命力にあやかろうとしたのかもしれません。一見すると「何をやっているんだろう、なんでそんなことを…」と思ってしまうことも、理由や理屈が隠れていることがあります。  三浦半島でもアーボヘーボは昭和40年ころまで行われていました。しかし、三浦半島の海沿いにはほとんど見られず、内陸部に多く見られました。その理由は定かではありませんが、海沿いは生業のなかで漁撈が占める割合が高いことから、アーボヘーボは農事に関する予祝儀礼であったのではないかと考えられます。三浦半島のアーボヘーボを網羅的に調査したのは、三浦半島の考古学を牽引した赤星直忠氏です。赤星氏は三浦半島の民俗調査も行っており、その成果は当館の初期の研究報告にも「赤橋尚太郎」名義で掲載されています。今回お話しした内容は、赤星氏の調査記録をもとにしています。詳しくは『横須賀市博物館研究報告(人文科学)65号』(2021年3月発行予定)をご覧ください。また、当館にもアーボヘーボが展示されています。(民俗学担当:瀬川) 博物館で展示されているアーボヘーボ 「学芸員自然と歴史のたより」はメールマガジンでも配信しています。

『横須賀市博物館研究報告』の電子データ(PDF)公開について >

『横須賀市博物館研究報告』を広く活用していただくため、当館ホームページで電子データ(PDF)を順次公開することとしました。ただし、ホームページ上での公開が適切でないと判断される論題や図表、写真等がある場合は、非公開とする場合があります。なお、在庫のある刊行物については、引き続き2階受付窓口にて販売しております。 横須賀市博物館研究報告(自然科学) 横須賀市博物館研究報告(人文科学) 『横須賀市博物館研究報告』は、自然科学と人文科学、それぞれの分野で刊行されてきました。自然科学は1956年に第1号、人文科学は1957年に第1号が刊行され、現在まで続いています。 『横須賀市博物館研究報告』の電子データ公開に伴う著作権(財産権)譲渡に関する告知(お願い)

学芸員自然と歴史のたより「サムライたちのフランス出張-「横須賀製鉄所」建設への熱意」 >

1865年、日本最大の近代的工場施設であった横須賀製鉄所が起工されました。 その建設にあたって、江戸幕府はフランスに技術支援を依頼し、首長として技術者のヴェルニーが推薦されました。 ヴェルニーは直ちに横須賀製鉄所の基本計画をまとめあげて江戸幕府の役人に提出。さらに、横須賀製鉄所へのフランス人の雇用と機械の輸入等の実務をフランス現地で進めるため、ある程度の権限をもつサムライ一行のフランス派遣を依頼しました。すなわち、横須賀製鉄所建設にともなうサムライたちのフランス出張の依頼でした。出張者のリーダーに選ばれたのは、横浜開港などに貢献し、国際経験もあった柴田日向守剛中という人物でした。 柴田らサムライ一行が横浜港を出航したのは、 慶応元年5月5日(1865年5月29日月曜日)。そして、ほぼ2か月の公開をへて、同年7月6日(1865年8月26土曜日)フランスのマルセイユに上陸しました。そして、その翌日にサムライ一行とヴェルニーが面会しました。フランス人ヴェルニーと幕府の役人サムライ一行は直ちに打ち合わせを行い、速やかに出張業務を開始しました。 彼らは精力的に業務を進めて、次々とフランス人の雇用や輸入機械の選定を行って成果を重ね、サムライ一行は慶応元年12月3日(1866年1月19日金曜日)にマルセイユを出航、帰国の途につきました。そして、慶応2年1月26日(1866年3月12日月曜日)、横浜港に帰航しました。彼らの船には、横須賀製鉄所の初代建築課長のレイノーが乗船したほか、購入した機械の一部も積まれており、帰港の翌日に機械の荷揚げが開始されました。ヴェルニー記念館に展示している国指定重要文化財スチームハンマーもこの船で運ばれてきたものと考えられます。 彼らの出張についてはこれ以外にも興味深い出来事が確認できます。横須賀製鉄所に関する権限を委任された柴田日向守剛中は、このフランス出張中の様子を日記に克明に記録しました。この日記から、出張中の様々な出来事を知ることができます。 柴田の日記はくずし字で記されておりますが、これを読みやすい形に翻刻した方がおり、次の文献にて消化されています。興味を持っていただいた方のために書名を記させていただきます。「君塚進校注「仏英行(柴田剛中日載七・八より)」『西欧見聞集 日本思想体系66』(岩波書店,1974年)。同書などを解釈して解説を付した資料も当館で刊行販売しています。書名は、「慶応元年柴田日向守一行のフランス軍港視察と横須賀製鉄所の建設事業について-横須賀製鉄所におけるフランス系技術の導入に関する研究(その1)」『横須賀市博物館研究報告(人文科学)第54号』(横須賀市自然・人文博物館,2009年12月)となります。 上記でご紹介した書物は専門的な内容ですが、今回の記事で興味を持った方が多いようでありましたら、次回以降、出張内容の一部を紹介することも検討してみたいと思います。ご一読ありがとうございました。(近代建築学担当:菊地) 国指定重要文化財スチームハンマー(旧横須賀製鉄所設置)、3トン門形の稼動時の写真(平成8(1996)年8月22日撮影、在日米海軍横須賀基地内) 「学芸員自然と歴史のたより」はメールマガジンでも配信しています。