| 【日本から帰った後のペリー】 ペリーは、1794年に生まれ(ロードアイランド生まれ)、1858年に亡くなっていますから、嘉永6年(1853年)に来航したときは、59才でした。 日本からアメリカに帰国した直後は、合衆国の議会(国会)に報告するために、「ペリー遠征記」を編集していたようです。もう少し詳しく書くと、次のようになります。 1855年6月20日、「海軍能力委員会」の委員となる。 1857年12月、「ペリー遠征記」の編集を終了しました。 1858年3月4日、心臓病のため死亡。 ということになります。 ちなみに、ペリーの一家は、海軍の軍人が多く、「海軍一家」だと言われています。 |
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| たくさんの疑問があるようですね? それでは、質問について、一緒に考えてみましょう。 |
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| (1)ペリーはなぜ、日本へ来たか? | ||
| まず、なぜアメリカ合衆国は、1853年にペリーを日本へ行かせたのでしょうか? ここから考えてみます。 最初に、アメリカの歴史を調べてみましょう。 |
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アメリカ合衆国が、現在のように大西洋岸から太平洋岸までの領土になったのは、ペリー来航以前のことで、十年もたっていませんでした。ペリーが日本へ来航した当時は、大西洋側にしか海軍の軍港がなかったほどです。しかも、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、まだ出来ていませんから、南アメリカのホーン岬をを廻らなくてはならなかったのです(あるいは、アフリカやインドを回ってくる)。当時の蒸気船では、太平洋を渡る途中で大量の水と石炭燃料を補給しないと、直接日本にたどり着くことは無理だったのです。 |
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| このような背景を知っておくと、ペリーが日本と交渉するときに、蒸気船を使うと18日間で日本や中国へ到着できると言った意味がわかります。ペリーはもちろん、アメリカ合衆国自体が鎖国していた日本を世界へ呼び出そうとしていただけではなく、その当時の中国という広い世界市場を目指して、中国や日本と貿易をするために蒸気船の中継港を日本に要求したのです。 なお、アメリカが日本へ派遣した軍艦はペリーの艦隊が最初ではありません。弘化3年(1846年)にビッドルという人が浦賀にやってきましたが、上陸することも出来ずに、追い返されたことがありました。 ビッドルもペリーも浦賀にやってきたのは、ここが将軍のいる江戸の入口だったからです。 さて、ここで荒川さんに調べてもらうことがあります。 アメリカ合衆国は、いつ建国されたのか? そして、1840年代から1860年代にかけてのヨーロッパやアメリカなどの列強と呼ばれた強い国々のことを調べる必要があります。 |
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| (2)ペリーが長崎での貿易に応じなかったのは? | ||
| (1)の理由があったからです。もし、長崎へ出向いたら、オランダや・中国と同じになってしまうと考えたからです。 | ||
| (3)日本とアメリカが結んだ条約について(不利だった?) | ||
| ペリー(アメリカ合衆国)と江戸幕府(日本)が結んだ条約は、ひとつではありません。まず、日米和親条約が、1854年2回目にペリーが日本に来た時に、取り交わされました。この条約は、これからお互いに仲良くすること、助け合うことが書かれていました。だから、「和」「親」条約なのです。不平等条約が和親条約ではありません。 その後1858年に、アメリカと取り交わした修好通商条約よりあとになると、アメリカ以外の国々とも、日本側の都合で輸入の税金を決められないとかの問題が含まれていたので、不平等条約といわれるのです。 |
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| (4)ペリーが来たことによってどんな影響があったか?(よかったこと、わるかったこと) | ||
| この質問については、いろいろなことが考えられます。ひとつだけ、ヒントになることを教えましょう。 江戸幕府の一部の人たちは、一年前にペリーが日本に来航しそうだということをオランダから聞いて知っていました。しかし、日本国内の諸大名はもちろん、一般の人には全く知らされなかったのです。 その結果、世の中にいろいろな影響が出ました。例えば、ペリーと最初に交渉をはじめなければならなかった浦賀奉行所の役人は、後日、なぜ自分たちにも知らせてくれなかったのかという疑問を残しています。きっと、裏切られたような気持ちだったのでしょう。 さらに、江戸幕府は、ペリーの開国要求に対してどうしたらよいか、自分たちで決定せずに、全国の武士や庶民達に意見を出してくれないかと頼みました。その中には、すぐに開国して世界と付き合いをするのが良いという人もあれば、絶対に相手の言うことを聞かないで、武力で追い返してしまえと言う人もありました。 江戸幕府の信用がなくなってきたのです。これも大きな影響です。さらに、世の中全体が、今までの仕組みではうまく動かなくなっていました。こうした中から、討幕に関わる人たちも出てきたのです。 |
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| (5)ペリー達に対して、当時の日本の人々が、どういう態度をとったか? | ||
| よく当時の日本人は、みんなただ驚いていたとかかれていますね。たしかに、江戸幕府の役人たちや大名の人たちにとっては、大騒ぎする問題だったかもしれません。しかし、当時の庶民は面白がって、黒船見物に来た人が大勢いました。黒船に近づいて見ようとするものだから、幕府の役人が近づかないように追い払ったりしていたのです。 | ||
| (6)当時のアメリカの人達の食べ物について | ||
| ペリーたちが食べていたものを日本人が絵に描いて残しています。それを見ると現在と変わらないようです。ケーキやクッキーがかかれていました。 | ||