小学生の皆さんには、たくさんの疑問があるようですね? 
それでは、質問について、一緒に考えてみましょう。


 ペリーはなぜ、日本へ来たか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 まず、なぜアメリカ合衆国は、1853年にペリーを日本へ行かせたのでしょうか? ここから考えてみます。
 最初に、アメリカの歴史を調べてみましょう。
 アメリカ合衆国が、現在のように大西洋岸から太平洋岸までの領土になったのは、ペリー来航以前のことで、10年もたっていませんでした。ペリーが日本へ来航した当時は、大西洋側にしか海軍の造船所がなかったほどです。しかも、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、まだ出来ていませんから、南アメリカのホーン岬をを廻らなくてはならなかったのです(あるいは、アフリカやインドを回ってくる)。当時の蒸気船では、太平洋を渡る途中で大量の水と石炭燃料を補給しないと、直接日本にたどり着くことは無理だったのです。
 このような背景を知っておくと、ペリーが日本と交渉するときに、蒸気船を使うと18日間で日本や中国へ到着できると言った意味がわかります。ペリーはもちろん、アメリカ合衆国自体が鎖国していた日本を世界へ呼び出そうとしていただけではなく、その当時の中国という広い世界市場を目指して、中国や日本と貿易をするために蒸気船の中継港を日本に要求したのです。
 なお、アメリカが日本へ派遣した軍艦はペリーの艦隊が最初ではありません。弘化3年(1846年)にビッドルという人が浦賀にやってきましたが、上陸することも出来ずに、追い返されたことがありました。ビッドルもペリーも浦賀にやってきたのは、ここが将軍のいる江戸の入口だったからです。

 さて、ここで皆さんに調べてもらうことがあります。
 アメリカ合衆国は、いつ建国されたのか? そして、1840年代から1860年代にかけてのヨーロッパやアメリカなどの列強と呼ばれた強い国々のことを調べてみましょう。

ペリーが来たことによってどんな影響があったか?
   (よかったこと、わるかったこと)
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 この質問については、いろいろなことが考えられます。ひとつだけ、ヒントになることを教えましょう。
 江戸幕府の一部の人たちは、一年前にペリーが日本に来航しそうだということをオランダ国王から聞いて知っていました。しかし、日本国内の諸大名はもちろん、一般の人には全く知らされなかったのです。
 その結果、世の中にいろいろな影響が出ました。たとえば、ペリーと最初に交渉をはじめなければならなかった浦賀奉行所の役人は、後日、なぜ自分たちにも知らせてくれなかったのかという疑問を残しています。きっと、裏切られたような気持ちだったのでしょう。
 さらに、江戸幕府は、ペリーの開国要求に対してどうしたらよいか、自分たちで決定せずに、全国の武士や庶民たちに意見を出してくれないかと頼みました。その中には、すぐに開国して世界と付き合いをするのが良いという人もあれば、絶対に相手の言うことを聞かないで、武力で追い返してしまえと言う人もいました。
 このようなことをくり返している間に、江戸幕府の信用がなくなってきたのです。これも大きな影響です。さらに、世の中全体が、今までの仕組みではうまく動かなくなっていました。こうした中から、討幕に関わる人たちも出てきたのです。


 ペリーたちに対して、当時の日本の人々が、
   どういう態度をとったか?
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 よく当時の日本人は、みんなただ驚いていたとか言われますね。たしかに、江戸幕府の役人たちや大名の人たちにとっては、大騒ぎする問題だったかもしれません。
 しかし、当時の庶民は面白がって、黒船見物に来た人が大勢いました。黒船に近づいて見ようとするものだから、幕府の役人が近づかないように追い払ったりしていたのです。ある村名主さんは、自分で望遠鏡を持って、浦賀までやって来たりしました。また、ある名主さんは仲間と連れだって、船で見学に来て、蒸気船のスピードは日本の速度の速い小舟と同じくらいだと思いました。それは、現代のヨットのスピードぐらいのだったみたいです。

またついでに、当時のアメリカの人たちの食べ物についてお教えしましょう。
 ペリーたちが食べていたものを日本人が絵に描いて残しています。
それを見ると現在と変わらないようです。ケーキやクッキーがかかれていました。
細かい情報は、
ペリーが日本へ持ってきたもののリストを見てください。




なぜ「黒船」で来航したか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「黒船」という呼び方は、日本人が勝手に付けた名前です。船体が黒いので、「黒い船」=「黒船」とよんだようです。

 
言葉は、通じた?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時日本は、鎖国中でしたが、オランダと中国とは貿易をしていました。貿易をしていた長崎の出島には、オランダ語を話せる通訳(阿蘭陀通詞)が何人もおりました。一方、アメリカ側にはオランダ語を話せる人がいて、英語→オランダ語→日本語の順で通訳をしました。
 また、森山栄之助という阿蘭陀通詞は、英語も少しは話せたので、彼が浦賀へ呼ばれると、ずいぶん通訳がはかどったそうです。

ペリーが、久里浜に上陸した時は蒸気船が2艘!・・・・・・・・・・・・・・
嘉永6年(1853年)、最初にペリーが来航した時、4艘の艦隊を組んでやってきました。内訳は、帆船2艘・蒸気船2艘でした。しかも、久里浜へ上陸した日、風がなかったので、蒸気船だけが停泊地より移動して、400〜500人を上陸させたのです。
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という狂歌の、「上『喜撰』」(上等なお茶の種類)=「蒸気船」という表現は当時の庶民のシャレです。

阿蘭陀風説書とペリー来航情報?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
江戸幕府は、鎖国の間、中国とオランダから海外情報を得ていました。特に、毎年長崎出島のオランダ商館長が報告する「阿蘭陀風説書」は重要な情報源でした。嘉永5年にはオランダ国王からの知らせで、アメリカが艦隊を派遣してくることを幕閣は知っていました。
 但し、その情報を知っていたのはごく一部。水戸の徳川斉昭が、京都の鷹司家へ内密に伝えたことが最近の研究でわかっています。



 ペリーは、1794年に生まれ(ロードアイランド生まれ)、1858年に亡くなっていますから、嘉永6年(1853年)に来航したときは、59才でした。
 日本からアメリカに帰国した直後は、合衆国の議会(国会)に報告するために、「ペリー遠征記」を編集していたようです。もう少し詳しく書くと、次のようになります。
 1855年6月20日、「海軍能力委員会」の委員となる。
 1857年12月、「ペリー遠征記」の編集を終了しました。
 1858年3月4日、心臓病のため死亡。
ということになります。
 ちなみに、ペリーの一家は、海軍の軍人が多く、「海軍一家」だと言われています。


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★特別展示
「First landing in Japan -1853年ペリー来航-」